個人史
小学五年生で始めた油絵
1921(大正10)年3月1日、青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)の開業医・昆野清吉の長男として生れる。
母せつ。翌年父は急逝。母により育てられる。1924年(大正13)、3歳の時に出火した八戸大火の赤々とした焔が最初の記憶という。
小学校(八戸尋常小学校)五年生のころに油絵に興味を持って勉強をするようになり、次第に熱中し、それが絵の世界に深くは入り込むきっかけとなる。中学時代もその状態が続く。
第一回学徒出陣で出征
1941(昭和16)年4月、中央大学法科に進学。絵の制作の他、博物館・美術館を廻ったり、画廊を覗いたりする中で、銀座の印象派・後期印象派複製展で観た「鴉の群れ飛ぶ麦畑」に衝撃を受ける。美の力の大きさを身体で学ぶ貴重な経験となり、後にゴッホの絶筆となった作品であることを知る。
1943(昭和18)年、第一回学徒出陣で徴兵される。見納めに十和田湖畔にでかけ、帰京後、絶筆めいた思いで「月の出」を描く。完成前に入営となるが、その後、画家として生きる糸口になった作品と記している。

出征前、十和田湖畔で

「月の出」 油彩 1943年
特攻隊を送り出す悲しみと苦痛
1943(昭和18)年、弘前市第百三十一隊入営。翌年、習志野での幹部候補生教育を終了後、帯広航空隊に配属。画帳、パステル、墨絵用の矢立を持ち込み、時間があるときにこっそり絵を描いていた。
1945(昭和20)年3月、中国上海虹橋飛行場に陸軍航空少尉として転勤。特攻隊人事担当として同世代の青年を送り出す任務は、「腹の底まで突き通る、どうしようもない深い悲しみと苦痛」として心の深い傷を残す。同年8月15日終戦。上海で翌年3月まで捕虜として抑留生活を送った後、帰国復員。
捕虜時代に声楽家・畑中良輔氏(1922〜2012)との交流が生まれた。

軍隊時代


拘留生活での交流を畑中良輔氏は著書に記している
絵が描けず、向山高原に移住
1946(昭和21)年、八戸に帰るが、筆を取る気力は消失。自然や大地の豊かな生命力を心身に吸収しようと、下田村(現・おいらせ町)の辺鄙な向山高原に小屋を建て移住。自給自足の生活を始める。次第に生活が整ってくるが、絵を描けない状態は続く。1949年(昭和24)年、八戸の高校教諭の職を得、向山と八戸を往復する日々となる。1951(昭和26)年5月、柏崎美智と結婚。翌年3月に長女誕生。

家畜を飼い自給自足の向山生活
八戸の生活で制作再開
1954(昭和29)年、微熱のとれぬ日が続いたため、生活を八戸市に移し、療養・治療に励む。熱は収まり、はじめるとともに、少しずつ作品を描けるようになり、次第に多作になる。
1955(昭和30)年から3年続けて個展を開催、56年に長男誕生。1959(昭和34)年、38歳で開いた「ヒロシマスケッチ」展の後、絵を描くことは最も信頼できる思索の手段と考えるようになり、作品展示を止め、ひたすら沈黙の中で制作する決意をする。

教員時代

1959(昭和34)年、第五回原水爆禁止大会に出席。
ヒロシマの印象を絵と文で綴る
画業を深く支えた信仰心
制作の日々が日常となるが、戦後20年を過ぎても飛行場での悲しみは消えず、時とともに自分への重い問いかけになっていく。答えが見つからない中、カトリック信仰と出会う。東京の修道院に通い始め、1970(昭和45)年、49歳で洗礼を受けたことが、抽象的宗教画家への転機となる。
作品には洗礼名 “Raffaello(ラファエロ)”を署名し、宗教をテーマにした作品を多く描くようになる。2003(平成15)年、神に向かうものの詩として描き続けたライフワーク「溯源画巻」全36巻が完成。翌年、新聞社主催による45年ぶりの個展で公開されたのを見届け、2005(平成17)年4月1日に逝去。

